長春紅團筆記
近代文学系(明治漢詩俳句文芸、モダニズム文学・満洲文学)、近代東洋史(日本・大陸の諸々軍事系)や東洋近代もろもろ。
西洋史(ナポレオニック仏国と、英国海軍、Sir Sideny Smith中心)帆船小説、など調べ物メモまとめ。
老舎『四世同堂』にみる否認。
これまた書きなおす。
■老舎の「四世同堂」で。
バリバリ北京人のリキシャ引きが、日本兵のふりして無賃乗車しようとした若いのを捕まえたとき。
その軍装の若い男に「馬鹿野郎」と日本語で云われたのだが、その男の言葉は中国語のなまりで東北人の中国人と気づいた、と話すシーンがある。
その北京っ子が「なんであいつは日本人になったんだ」って思った箇所は、端的に関内と関外満洲の人間の立場を表してる。
尋ねられた相手(主人公格)はこう答える。
「老人の東北人は永遠に中国人だ。でも学ぶのも読むのも聞くのも日本ばかりで、若い人間が変わらないでいられると思うか?誰も奴隷になりたいなんて思わない、でも毎日毎日何年もかけてずっと、『お前は中国人じゃない!』って言われるんだ、誰も堪えられないよ」
しごく客観的。
それは北京と満洲、って物理的な距離感が間民族から見て山海関から先の「満洲を遠ざけていること」。
精神的な距離感も強化されてる背景と、まさか自分たちはそうならない、って否認(ディナイアル)状態に陥っているが故に都合の悪いことに目を瞑ってしまう人間を、すでに1944年に書かれてる。
だから場所ごとに全く違うから難しいって話。
「祁先生!那麽現在咱們的小學生,要是北平老屬日本人管著的話過個三年五載的,也會變了嗎?」 瑞宣還沒想到這一層。聽小崔這麽一問,他渾身的汗毛眼都忽然的一刺,腦中猛的“轟”了一下,頭上見了細汗!他扶住了墻,腿發軟!」
は国語教科書に載せるべきや。
どこの国の、いつの時代にだって言えることじゃないかしらん。
だってさープロレタリア文学が思想変動と現実の世情変化で、本来持つ呪詛的威力が無くなったのと違うわけじゃん。
植民地文学の中で提示されてきた「居心地の悪い同床異夢」の問題が解消されてない限り、過去のものとなり得んよなー。
しかしながら過去となった時点で、人間は人間以外のものになってしまいそうな気も。あは。
■もう一つ関連して。
数年前の長春で、たまたまバスの中で知り合った、御父上が満州国の役人だったおばあさんに「花」を歌って貰った。
「でも隅田川の桜は見たことないの」って云われてマジ泣きした。
もうひとり、大連の日本人学校に通ってた中国人のおじいさんと「わたしたち」を歌ったことがある。
何が泣けたかって言うと、別にアレじゃなくって。
ああそうか、当時子供だったこの人達にとって、当事者じゃない無関係の人間がくだらないことを思う前に、本当に青春というか子供のときの思い出であって、戦争や政治的なものの前に異文化が重なった生活があって生きてたんだ。
とね、今更ながら当たり前だけど思ったんですよ…。
おばあさんが想像してた隅田川ってどんなだろう、とふと思います。
タグ:大陸中文文芸
■老舎の「四世同堂」で。
バリバリ北京人のリキシャ引きが、日本兵のふりして無賃乗車しようとした若いのを捕まえたとき。
その軍装の若い男に「馬鹿野郎」と日本語で云われたのだが、その男の言葉は中国語のなまりで東北人の中国人と気づいた、と話すシーンがある。
その北京っ子が「なんであいつは日本人になったんだ」って思った箇所は、端的に関内と関外満洲の人間の立場を表してる。
尋ねられた相手(主人公格)はこう答える。
「老人の東北人は永遠に中国人だ。でも学ぶのも読むのも聞くのも日本ばかりで、若い人間が変わらないでいられると思うか?誰も奴隷になりたいなんて思わない、でも毎日毎日何年もかけてずっと、『お前は中国人じゃない!』って言われるんだ、誰も堪えられないよ」
しごく客観的。
それは北京と満洲、って物理的な距離感が間民族から見て山海関から先の「満洲を遠ざけていること」。
精神的な距離感も強化されてる背景と、まさか自分たちはそうならない、って否認(ディナイアル)状態に陥っているが故に都合の悪いことに目を瞑ってしまう人間を、すでに1944年に書かれてる。
だから場所ごとに全く違うから難しいって話。
「祁先生!那麽現在咱們的小學生,要是北平老屬日本人管著的話過個三年五載的,也會變了嗎?」 瑞宣還沒想到這一層。聽小崔這麽一問,他渾身的汗毛眼都忽然的一刺,腦中猛的“轟”了一下,頭上見了細汗!他扶住了墻,腿發軟!」
は国語教科書に載せるべきや。
どこの国の、いつの時代にだって言えることじゃないかしらん。
だってさープロレタリア文学が思想変動と現実の世情変化で、本来持つ呪詛的威力が無くなったのと違うわけじゃん。
植民地文学の中で提示されてきた「居心地の悪い同床異夢」の問題が解消されてない限り、過去のものとなり得んよなー。
しかしながら過去となった時点で、人間は人間以外のものになってしまいそうな気も。あは。
■もう一つ関連して。
数年前の長春で、たまたまバスの中で知り合った、御父上が満州国の役人だったおばあさんに「花」を歌って貰った。
「でも隅田川の桜は見たことないの」って云われてマジ泣きした。
もうひとり、大連の日本人学校に通ってた中国人のおじいさんと「わたしたち」を歌ったことがある。
何が泣けたかって言うと、別にアレじゃなくって。
ああそうか、当時子供だったこの人達にとって、当事者じゃない無関係の人間がくだらないことを思う前に、本当に青春というか子供のときの思い出であって、戦争や政治的なものの前に異文化が重なった生活があって生きてたんだ。
とね、今更ながら当たり前だけど思ったんですよ…。
おばあさんが想像してた隅田川ってどんなだろう、とふと思います。
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永月弥生
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